2019年8月2日金曜日

日本学術会議公開シンポジウム 「国語教育の将来:新学習指導要領を問う」に参加してきました

本イベントについては、以前こちらのブログでも紹介しておりますので、概要・プログラムについてはそちらをご覧ください。





本イベントについては、すでに「教育新聞」が「高校新指導要領の国語 「古典軽視」と危機感、日本学術会議」(購読会員限定記事)というタイトルで、当日の議論の様子を報告しています。


高校の国語教育を巡り、日本学術会議は8月1日、都内で公開シンポジウムを開き、研究者らが高校新学習指導要領の「国語」の科目構成に対して、「古典や近代文学の軽視につながる」と危機感を表明した。また「古典の授業は暗記を押し付けられている」「受け身の授業は不自然」と、座学を主体とした授業スタイルを批判した。同会議では、高校の国語教育の在り方について検討し、提言を取りまとめる予定。(教育新聞「高校新指導要領の国語 「古典軽視」と危機感、日本学術会議」)

 すでにニュース等でも話題になっているとおり、次期学習指導要領で、高等学校の国語の大幅な科目再編が行われます。具体的には、「現代の国語」と「言語文化」の2科目が必履修科目ととなり、「論理国語」「文学国語」「国語表現」「古典探究」の4科目を選択科目となるわけですが、これについては、様々なところで批判の声があがっています。

たとえば今年の1月29日に、日本文芸家協会が「実学が重視され小説が軽視される、近代文学を扱う時間が減るなどの危惧を訴える声」が作家や有識者からあがっているなどと指摘する声明を出したことが報道されました(朝日新聞「作家ら高校の国語改革を危惧「実学が重視され小説軽視」)。

今回のシンポジウムは、このような動向も受けて、日本学術会議として、高等学校における国語教育の在り方について検討し、提言を取りまとめること想定して、実施されたものであるようでした。

この問題については、国語教育に係る研究者、実践家のみならず、広く多くの方が関心を持たれているということがよくわかるシンポジウムでした。

平日の昼間開催ということもあり、行きたくても行けなかった方も多くいらっしゃるかと思いますので、今回のシンポジウムで議論された内容のメモを共有いたします。

シンポジウムを聞きながら打ち込んだ速記的メモですので、誤字脱字や用語の間違いなどもありますが、それについては今後見直していくつもりです。

しかし、おおよその議論の内容については、イメージをもっていただけるのではないでしょうか?
このシンポジウムでの議論が、広く皆さんの心に届き、より多くの方々の議論を呼びおこしていただくこと、それによって、文学教育のありかた、高等学校における国語教育のありかたについて、社会全体での合意形成に向けた民主的なかたちでの議論が進むことを願わずにいられません。



公開シンポジウム
「国語教育の将来:新学習指導要領を問う」
日時:2019年8月1日 13:00-18:00
会場:日本学術会議講堂

Ⅰ.はじめに
0.開会の辞(松浦)
・日本学術会議の部会で「日本語の将来」を取り上げた。それをもとに、いくつかの課題をつくった。その課題のひとつが「言語・文化」であった。
・最近、教育の分野で改革が謳われているが、新しい学習指導要領では、高校の国語教育に関しても大きな枠組みの変更がある。
・言語生活、言語との取り組みの根本にかかわる国語教育の制度上の枠組みが変わるということで、今後、どうしていったら良いのかに関心をもっている。また国民の関心も高いのではないか。
・総合テーマ「日本語の将来」に直接的に関わるテーマであると考えている。
・自分のことを考えてみても、高校の国語教育は、言葉に対する態度を考えたり、人生について考えはじめたりする場である。自分の場合もそうであった。その大事な国語教育を、今後どうしていったらいいのかを、数時間にわたって討論していきたい。

1.趣旨説明(小倉)
・高校学習指導要領の変化が示された。
具体的には、「現代の国語」「言語文化」の2つが必履修科目として示されるとともに、「論理国語」「文学国語」「古典探求」「国語表現」が選択科目として示された。
・このような変更によって、文学や古典が軽視される懸念はないのか?
・「論理的思考」が強調されているがこれはどのように位置付くのか?
・この問題にたいしてどのように対応していったらいいのか?
・これらの問題について、まず5名のパネリストによる発表、第2部では、パネリスト間の討論、第3部ではフロアとの討論を行う。
・本分科会では、今回のシンポジウムをふまえた提言をおこなう予定である。その提言を作成する際に、アンケートを活用するので、ぜひアンケートを作成してほしい。

Ⅱ.パネリストによる発表
1. 新学習指導要領における「文学」概念を問う(安藤)
・今回の新学習指導要領は、従来と比べて大きな変化があった。
・なかでも、必履修科目の「現代の国語」と「言語文化」。選択科目の現代文が「論理国語」と「文学国語」の2つに分かれることが目を引く。
・今回のこの区分に関しては、人文系の学問に関わる人間が違和感を感じている。
・我が国の人文学の行く末に対する大きな危機感があり、それが今回のシンポジウムにつながったのではないか。

(1)「論理国語」「「文学国語」について
・これらは2つの対をなす概念なのか?文学に論理はないのか?
・文学にも論理はある
・夏目漱石、森おうがいの作品群には、独自の論理構造をもっている。文学に携わる人間は、このような独自の論理構造を読み解く作業を行っている。高校の授業でもこのような論理構造を読み解くことへの導入を行ってきたはずである。
・「論理的思考能力」は社会での実践に役立つ実用的なトレーニング、「文学」は情緒にかかわるという先入観があるのではないか。
・人間の心情にかかわる能力を読み解く能力を育成することが、社会での実践につながっていくのではないか。
・今回の指導要領・解説では、国語の文章が、論理的文章、文学的文章、実用的文章の3つに分けられている。「論理国語」では論理的文章、実用的文章、「文学国語」では文学的文章を扱うこととされているが、このような3つにわけることは可能なのか?
・小林秀雄の「無常というもの」なのは優れた文学的文章であり、論理的文章ということになる。現在の「論理的文章」の定義にはあてはまらない。
・むやみに、論理的文章、実用的文章と文学的文章を対比されることで、社会における実用に必要な文学的要素までが排除されてしまうのではないか?
・昨年度、「非文学」「ノンフィクション」という定義で統一するものがそもそも可能なのか?という問題を提起され、それへの対応は一部(定義にかかわる文言の削除)が行われたが、問題は依然として残っている。
・今回の学習指導要領では、行政が「文学」を定義しなければならないというやっかいな領域に踏みいってしまったのではないか。

・企画書や契約書が実用的な文章であるというのは納得がいく。詩歌などが文学的文章であるのも納得がいく。しかし世の中の文章のほとんどはこのような区切りにおさまらない。文学者によってかかれた非常に質の高い批評文が存在している。(例:夏目漱石「私の個人主義」)
・夏目漱石の「こころ」は、文学的文章であると思うが、この内容には「私の個人主義」も当然かかわってくる。このとき「私の個人主義」は文学的文章なのか、個人的文章なのか。
・小林秀雄「無常というもの」は、文学者がかいた文章だから「論理的文章」に入れてはいけないのか?あるいはそれは許されるのか?
・これらの名作の運命はいったいどうなっていくのか?

・内田樹「映画の構造分析」は、「現代文」に採用されているが、ここで内田は論理と物語との関係について論じている。「AはBである」という論理によって割り切れないものを説明するときに「物語」が発動すると述べている。
・このような文章は「論理的文章」なのか「文学的文章」なのか?「論理的文章」であるとしたら、非常に皮肉な事態になるのではないか?

・野口裕二「物語としてのケア」では、社会における「物語」の大切さと怖さを、臨床心理学の立場から、論理的に述べている。

・人文科学、社会科学、自然科学が密接に結びつきあうべきものであることを主張している文章は多い。これを「論理的文章」「文学的文章」の2つに切り分けるとしたら、これを生徒はどう思うだろうか?
・人文知のありかたが、今回の学習指導要領による切り分けによって、危ういものになってしまうのではないか。

・問題は「文学とは、そもそもなにか」という概念規定にかかわってくる。
・「論理」と対をなすかたちで「文学」と書いてしまうことで、「文学」がかなり狭い領域、狭義の言語芸術に閉じこめられてしまっているのではないか。
・そもそも「文学」は、文字でかかれた文章のすべてを表していたい。狭義の言語芸術としての意味として定着したのは、明治の後半になってからである。まだ歴史の浅い特殊な意味用法である。
・1990年代以降、このような「文学」の問い直しがはじまっている。それが人文科学の一般的な動向でもある。
・そういう意味でも今回の改訂の「文学国語」における「文学」概念は古いものである。
・小説や詩歌を、博物館の陳列ケースに並べるような発想にたって「文学」という用語が用いられているのではないか。
・これからの情報化社会に対応する人材を育成する必要性があるのはたしかであり、それを否定するものではない。社会に役立つ人材を育成するトレーニングと、社会のありかたを問い直す人材を育成するトレーニングは、車の両輪であるべきである。
・新指導要領では、人文科学的な発想がなおざりにされて、社会科学的な発想が強調されすぎているきらいがあるのではないか。
・「論理」「文学」をわけて、「論理」に「文学」を入れるべきではないという考え方は止めるべきではないか。
・現代の情報化社会のなかで「文学」概念そのものが大きく変化している。その中で、行政が「文学」を定義することは避けたほうが良いのではないか。

2. 古典教育の危機を救う(三宅)

(1)「古典」が嫌いな生徒たち
①教育政策研究所による2007年による調査:「古典嫌い」「漢文嫌い」
②2014~2017年度古典力調査結果:
・教師になるにあたって不安な点「古典をあまり読んでない」
・古典の授業に対する不満:「文法ばかり」「暗記ばかり」

(2)「古典」嫌いの原因・理由は教師側にあるのか?生徒側にあるのか?
・「教師自身の意識改革と古典力強化」が急務
・機械的品詞分解+丸暗記現代語訳→受動的学習→古典を学ぶ意義の不明化
・大学1年生の授業で、『こぶとりじいさん』と『宇治拾遺集』を比較している授業の中で「ただ目鼻をば召すとも、この瘤は許し給ひ候はん」
・大学生の感覚としては「古典の世界の人は宇宙人と同じ」。何を考えているかはわからないと思っている。

(3)新学習指導要領への期待
・「主体的・対話的で深い学び」「生徒を主体とした授業づくり」は重要なことであり、自分も同じ危機感を共有している。
・大学の講義をゴールとした、レクチャー型の授業から解放をしていくべきという思いも共有する。

(4) 魅力的な「言語文化」①
・古典・近現代文学の枠を取り払ったことについては、評価している
・「古典」「近現代」の境目がどこにあるのかは、実はわからない。
・なぜ「江戸」「明治」ではっきりとわけることはなぜ必要なのか?
・論理的文章・説明文・翻訳文学などもすべて「言語文化」として捉えるべきである。
・むしろ、「言語文化」をより魅力的にしていくためには、「文字情報のみが言語文化」という発想を解体していくべき。

(5)魅力的な「言語文化」②
・「聞くこと」「見ること」の活用:「文字情報=言語文化」からの解放
・児童・生徒ほど「聞くこと」「見ること」へのハードルが低い。小中高と継続していくことが重要。
→高校生のほうが「文法のチェックをさせてくれ」という発言をしてきてしまう。言葉の壁を感じてしまう。
・例:小学1年生5月の授業で『百人一首』実験授業では、「久方の・・・」の歌を聞いただけでなんとなくイメージはできる。

(6)魅力的な「言語文化」③:同じ教材を繰り返し学ぶ利点
・小学校から習う古典:『枕草子』『竹取物語』『百人一首』『平家物語』『徒然草』・・・
・発達段階によって理解できるレベルや内容が違ってくる。そのような意味で、小学校で学習した教材を、中学校でも、高校でも学習してほしい。

※『枕草子』初段
小学校5年 光村図書・東京書籍・学校図書 
小学校6年教育出版
中学校2年 光村図書・東京書籍・三省堂・教育出版
高等学校 第一学習社・・・など

(7)保守的な印象の「古典探求」①:
・従来とあまり変わらない印象
・「必要に応じて自由に科目や教科書を採用」とあるが、これは本当に可能なのか?
・受動的授業から抜け出す、発想の転換

(8)保守的な印象の「古典探求」②:「古典探求」での見ること・聞くことの提案
・絵画資料の効果的な利用(安野, 2019)
→大島本・河内本の比較
→現在の教科書では、河内本の解釈によった挿絵を採用しているが、「2人で垣間見している」という解釈も可能なのか?是光の人物像は?

(9)枠を外した自由で柔軟な発想と技術
・文学研究×国語教育研究×教育現場とのコラボレーションを!
・もっとも必要な、開放的な情報交換の場と、その内容の発信
・本シンポジウムを出発点に情報交換をしていけると良い。

(10)キーワードは、「古文は時の方言」

3. なぜ、そしてどう古典を学ぶか(渡辺)

・高等学校学習指導要領の作成に関わった人間である。
・完成した指導要領に関しては、是々非々の立場にたって話をするつもりである。
・それが現在の学習指導要領について議論する際に有益であると考えている。

(1)なぜ古典を学ぶか
・「学ぶこと」の意義について、明確な言及がない。
・「我が国固有の文化に親しむこと」は謳われているが、それ以上の言及はない。
・ナショナル・アイデンティティに関わるのだろう。
・しかし日本の古典の魅力は、「ナショナル・アイデンティティ」に限定されるものではない。それは、他者とともに寛容にいきる力である。

①共生のよりどころとなる言葉を知るために

 1) 継承されてきたものとして、時代を超えて共生的である
→長い間支持され、多くの人々の間で鍛え上げられてきた

 2) 伝承を基盤とするなど、成り立ちが共生的である
→共同的・集団的な行為や観念が、成立の基盤にある

 3) 古典自体がしばしば古典を引用し、より所にする。内容的に共生的である
→古典は、「ああこれだ」と古典によって発見される。古典同士が共生的
→「古典によって、古典が発見されている」。この発見があることが重要。

・なぜ人は共生できるのか、共生を考えるより所になるのが古典。
・また、共生のより所になるような古典の学びになってほしい。

②情理を兼ね備えた言葉を知るために
・「情理を尽くした文章」としての古典の魅力。
・古典文学=漢詩文・仏教の影響を情緒の論理・感性の論理と呼ぶべきもので和らげ、我がものとしてきた

③ 日本古典の特性
・古来、日本古典の継承性は参加型である
・自分が行動していく、入りこんでいくことが求められる。学んだものをもとに、俳諧や漢詩や擬古文を書いてそれを引用しつつ表現する
→鎖のように連続していく

・受け身一方の授業は、日本の古典受容を考えてみても「不自然」なありかたである
・「主体的・対話的で深い学び」については、古典については日本文化の中で位置づけたいし、そうすべきだと考えている
・「参加型」は日本の古典、日本文化固有の性格を生かして考えられるべき
→古典は「学び方」も示すものである

(2)古典をどのように学ぶのか

①「内言」を形成するための参加型授業
・「内なることばの国」の建設に寄与する古典教育
・「内言」:「詞は古きを慕いひ、心は新しきを求め、及ばぬ高き姿を願ひて・・・」(藤原定家)

②日本文化の参加型の特性に照らして考える
・「情理を兼ね備えた言葉」は、外言(概念的言語)が内言化けされた思考において生まれ、内言が外言となることによって実現する。
・内言ー外言を往還するための参加型授業

※日本文学研究者による「アクティブラーニング研究会」→日本古典の参加型の性格を生かした授業づくり

③内言の外言化/外言の内言化
・古典教育では、一言一句にこだわることができ、スローペースが許される

※内言の外言化を示した例(現代の問題を古典に探す):卓抜な着眼点を古典に学ぶ
「つれづれなるままに、日ぐらし硯にむかひて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく書き付くれば、あやしうこそ物狂ほしけれ」

(3)意訳・翻訳・翻案のすすめ
・古典の現代語訳は、内言を意識し、これを外言化する最適な機会であり、正確な現代語訳だけを求めることにとどめたくない
・おおまかな文脈を理解した段階で、それをどう言語化するか?
・正確さにこだわらず、その趣意をつかみとる創意工夫を主眼とする授業があってよい

(4)提案:「古典を学ぶ」から「古典に学ぶ」
・「古典を発見する」:とくに「心」に関する問題をとく鍵を、古典に発見していく
・「現代の国語」「言語文化」の2つに分割するのではなく「総合国語」4単位とすることを提案したい

4.高校における「国語」という教科の特性とはなにか(大森)

(1)「国語の育成は「国語科」だけが担う」という呪縛からの解放を!
・新しい学習指導要領では、「思考力、判断力、表現力をはぐくむ」とあり、国語科がこのほとんどを担わなければならないと捉えかねられない。
・しかし、「教育課程の編成」というところでは、言語能力、情報活用能力などの能力について「教科等横断的な視点から」取り組むことが強調されている。
・灘高校では、教員ひとりひとりが、一国一城の主であるが、「国語力を育てるのは、「国語科」だけではない」ということが、共通の認識としてあった。
・日常から、言葉を使って生活し、活動している。「国語に関することは、国語科の責任だ」という呪縛から解放されるべきではないか
・灘中の入試問題ですら、「国語」は全員が鵜の目鷹の目で見る
・高校の教師となったときには、自分の力量の専門外のところも含めて、いかなるものを生徒たちに伝えるかを考えて伝えている

(2) 「実用的な文章」について
・今までの感覚でいうと「古典を学んで何になる?」という高校生は存在している。しかし「三角関数を学んでなんになる?」と思う生徒たちはいないだろう。なぜ国語だけが、ふだんの言語の暮らしを見なければならないのか?
・「実用的な文章」は、異論を防ぐためにどんどん複雑なものになってきている
→例)『高等学校学習指導要領』、「約款」は非常に複雑で莫大な量になってきている。
・「実用的な文章」を読む機会は、どんどん減ってきている。
・「実用的な文章」を読ませたければ、「実用的な文章」を簡略化するしかない。
・専門的なことを国語科でとりあげるという方向があってもいいし、コミュニケーション力が必要だというのであれば、これは国語科から引き離せば良いのではないか?
・コミュニケーション力、言語能力は、現在でも各教科が担っている。それを国語科だけに押しつけるべきではないのではないか。国語だけでこれを担わなければならないのであれば、もっと時数を拡張する必要がある。

5. 高等学校新学習指導鵜要領国語科の目指す授業改善(大滝)

・新学習指導要領に関心を持っていただいていることに感謝したい
・昭和20~30年代のあたりに「言語教育か、文学教育か」という議論があったが、それに匹敵あるいはそれを追い越すものになってきている
・学習指導要領をどのように捉えるべきかについて、いろいろな意見があることを感じた。
・今回、高校学習指導要領に注目が集まっているが、正確に読んでいただいているのか?という疑念もある。そこで配布資料も含めて、説明していきたい。
・高等学校学習指導要領の分量も増して、ひとつひとつを丁寧に理解してもらうことが難しくなっている。
・自分の立場として、教員養成の立場にいるため、個人の考えをすべて伝えるわけにもいかない。伝えることができないことがあることを了承してほしい。

(1) 改訂の背景:社会と我が国の状況
・少子高齢化のもたらす問題、GDPの低下など
・「Society 5.0」の到来:AI時代を見据えた、サイバー空間とデジタル空間をかけあわせたシステム
→どのような生活への影響があるのか予測がつかない
・どのように生き抜くための力を身につけさせるのか?
→「どのような言語能力を身につける必要があるのか?」

(2) 「高大接続改革」の必要性
・「契約書」という言葉が頻繁に登場する。よほどインパクトがあったようだ。「契約書」一色の授業になってしまうのではないかという懸念すら表明されている
・しかし本改革の本来の趣旨は、子どもたちが、Society5.0を生き抜くための本来の力を身につけること。
・学力の3要素の2つ目である「思考力、判断力、表現力」を重要視していくこと。
・高校と大学とそれをつなぐ大学入試の一体的な改革

(3)学習指導要領改訂の考え方
・新しい時代に必要となる資質・能力の明確化:「何ができるようになるか」「何を学ぶか」「どのように学ぶか」
・「何を学ぶか」だけではその内容が陳腐化してしまう。それよりは「何ができるようになるか」を重視していくこととした。

(4)これからの教育課程の理念=「社会に開かれた教育課程」
・社会・世界の状況を幅広く視野に入れ、よりよい社会を創るという目標をもち、教育課程を介してその目標を社会と共有していくこと
・社会や世界に向きあいかかわり合い、自分の人生を切り拓いていくために求められる資質・能力
・学校教育を学校内に閉じずに、その目指すところを社会と共有・連携しながら実現させる

(4) カリキュラム・マネジメントの3つの側面

(5)主体的・対話的で深い学び
・子どもたちが、学びの意義を自覚しながら、自分で「これは学ぶべき価値がある」「充実感がある」という主体的な学びといった視点から、授業づくりを見直す
・「深い学び」については、国語とはどのような教科なのかということについてはいろいろな見解があると思うが、国語の授業にしていこう、言葉の学びを忘れないようにしようという話である。

(6)現行の国語の各科目の指導事項
・「国語総合」:「話すこと・聞くこと」「書くこと」「読むこと」
・「総合」=「現代文」「古文」「漢文」の総合という意味ではない!
・「話すこと・聞くこと」は、15~25単位時間、「書くこと」は30~40単位時間程度。また3領域の授業時数は重複しない。

(7)高等学校国語科の課題
・教材の読みとりが指導の中心になっている
・主体的な表現が十時されていない
・「話すこと・聞くこと」「書くこと」領域の学習が十分に行われていない
→これがきちんと行われていたら、これほどまでに大きな改革は必要ではなかったのではないか?

・古典の学習について、「古典嫌い」の問題
→「古典嫌い」の問題は、まだ改善されていないのではないか?

(8)国語科の科目構成・内容構成
・国語科において育成を目指す資質・能力の整理にもとづき、科目構成を整理
・「思考力・判断力・表現力」の言葉の働きを主として育成する科目として位置づけなおした

※〔知識及び技能〕の指導事項は、〔思考力・判断力・表現力等〕の指導事項をとおして指導することになっている
※「言語活動」を通して、資質・能力を身につける

(9)必履修科目「現代の国語」「文学国語」について
・「読むこと」について、現行では時数を細かく定めてこなかった
・新学習指導要領では、近代以降の文章で20単位時間、古典を40~45単位時間と示している。現行では示されていないため比較できない。
・現行の指導でも、実用的な文章は入っていたが、そのときには問題にならなかった。

(10)「内容の取り扱い」
・現行の学習指導要領でも、細かく示されているため、これに対して抵抗を感じる人もいるようだ
・教材ベースではなく、資質・能力ベースの発想にたっている
・資質・能力ベースでみた際の観点で、教材の取り扱いについて示している
→ここから出発して議論をしても、今回の改訂の趣旨について理解したことにならない
・「資質・能力」という観点から、全教科が整理されているので、まずは「どのような力を身につけるのか」という視点から考えてほしい

(11)「論理国語」「文学国語」について
・名前だけを見て、「論理」「文学」が対置されていると見られたことは残念である。ミスリーディングである。
・「感性国語」などとすることもできなかったので、これについては理解してほしい

(12)国語科の授業改善に向けた留意点
・資質・能力ベースの学習指導(「教材ありき」からの脱却)
・カリキュラム・マネジメント(組織的、PDCA)
・「主体的、対話的で深い学びの実現」

(13)新科目についての正確でない理解の例:資料参照

Ⅳ.パネリスト同士のディスカッション

(安藤)
・自分の話した内容から考えて、大滝先生に質問をしたい。どのようなポリシーについて話を聞きたいと考えていた。
・大滝発表の中で「新科目についての正確でない理解の例」を資料の中に、「言葉を「論理」と「文学」に分けることなどできる?」とある。この中で、「科目名は当該科目で重点的に育成する資質・能力を象徴的に表したものにすぎない」とあり、悲しくなった。なぜ、このような「象徴的な示しかた」をしたのではないか。そこに危うさはないのか、を問いたかった。
・また「文学は「感性・情緒の側面」のみに押しやられる?」について「あくまでも他科目と比較しての重点を示している」とあるが、それでも「重点」とされている。
自分としては、あらゆるものが「文学」と関わってくる。あらゆるものが「文学」と直結するのだということが伝えたかった。そのあたりについてうかがいたい。

(大滝)
・安藤先生の意見については真摯に受け止めなければいけないところがたくさんあった。
・「論理」と「文学」は分けることができないと自分も考えている。
・言葉については3つの側面のどの側面も絡んでくる。言葉には自分、他者とのコミュニケーションも含まれるし、論理的なところもあるし、感性を抜きにした国語も考えにくい。
・しかし、学習指導要領というのは、行政が判断して決めているものであり、学問的な成果ではない。有識者の中にもいろいろな考え方がある。安藤先生の意見も自分としてはよくわかる。一方で「論理」というのはこういうものだという意見も、学者によって意見が異なっている。行政としてはそれらの様々な考えを総合的に考えて整理しなければならない。そのうえで、文言のレベルも、全国的な教育課程の基準としてふさわしいものにまとめあげる必要がある。その中で「論理国語」「文学国語」というかたちで整理をした。
・そもそも「ここまでが「論理」」「ここまでが「文学」」という整理をしているわけではない。学習指導要領は、教師のみならず、生徒や保護者が読んでもある程度わかるものでなくてはならない。
・安藤先生は、研究者としての立場から言葉を厳しく見つめていると思うが、一般のいろいろな人たちが見ても、この教科ではこのような力を身につけるということがわかるようにまとめた。

(安藤)
・自分はよく理解しているつもりだが、やはり寂しく思う。
・世の中のニーズや要請にこたえるというのではなく、やはり「論理国語」「文学国語」という科目を創ったのであれば、それなりの理念があってのことではないか。その理念について、このような場でしっかり答えるべきではないか。

(大滝)
・価値観が多様化し、立場もさらに複雑なものになってきている。
・今、自分はこういう立場に制約して話をしているが、同時に一方で本名を曝して、自分なりに言葉をつむいでいる。一方、ネットでは匿名でいろいろなつぶやきが蔓延している。そういうものに自分が批判されたり、不利益を被ることもある。そういう時には、自分の言葉で自分を守らなければならない。協調していくことは大事なことだが、合理的な価値判断をしていくために、社会からの要請がますます重要視されているという問題意識をもっている。
・「論理国語」のようなものは、これまで教室で重視されていたか?と考えてみると、筆者の考えに対して反論するということは行われてこなかった。営業トークや意図的な論理構築を助長するという意見もあるようだが、それは学校の教師を信頼している。

(安藤)
・個と個のコミュニケーションが重要だからこそ、「論理」と「文学」で分けてはいけないのではないか?
・さきほど知人の哲学者が「論理」と「実用」をセットにされるのはイヤだとコメントしていた。「論理」というのはもっと普遍的ななにかである。「論理」についても、一歩間違うと、都合のよいように乱用されてしまう懸念がある。

(大滝)
・その懸念は共有している。
・「内容の取り扱い」をふまえていただいた上で、どのような科目にしていくのかを考えていってほしい。そのときに研究者の知見は非常に重要なのではないか。
・国語教室をめぐる専門家といえば、国語科教育学、教育学、心理学の先生方も教育について考えている。さらに学校の先生方もいる。そういうさまざまな人たちの意見を結集することが重要ではないか。

(安藤)
・自分がもっとも関わっている近代文学についてお聞きしたい。
・さきほど、夏目漱石の「私の個人主義」、小林秀雄の「無常ということ」、谷崎潤一郎の「陰影礼賛」がどのようになってしまうのか、と心配していた。
・しかし今日の資料「新科目についての正確でない理解の例」によると、「これまで取り扱ってきた評論や論説などの論理的な文章も教材とし」などとあることから、これまでの文章については「論理国語」の文章になるという理解でよいか?

(大滝)
・個別の教材について、今日は判断がつかない。
・この教材はこのような資質・能力の育成に役立つのではないかとご提案いただいたうえで、局として判断するということになる。

(安藤)
・そうであれば、これまでと変わらないのではないか。現在の「現代国語」でもできたのではないか。

(三宅)
・小学校・中学校・高校・大学の連携が大事だと言っていたが、具体的にどのように実現しようとしているのか?ただ大事だからやりなさい、と丸投げしているようにみえる
・「言語文化」から「古典探求」への連続性も求められている。中学校での古典からの接続として「言語文化」を置こうとしているように見えるが、どのように連続させるのか?具体的な案があるのか?現場や教科書会社に丸投げなのか?
・「話すこと・聞くこと」「読むこと」「書くこと」の区分けがよくわからない。これは、発信のときのやりかたなのか?情報収集のときには、さまざまなやり方がある。言語文化的なものはいろいろなかたちで吸収しているはず。なぜ「見る」が入っていないのか。

(大滝)
・国語の文脈でいうと、現行までは義務教育にしか系統表がなかったが、今回からは高等学校の系統表の作成をした。資質・能力の接続ということでいうと、まさに学習指導要領が、接続を計ろうとしていると見ることができる。
・実際にそれぞれの校種をつなげる具体的な取り組みについては、まずは、教育委員会主導の取り組みとして始められるのではないか。また研究指定校でもそのような取り組みが行われている。モデル研究指定校からの発信を通じて広めていきたいと考えている。それは国立教育政策研究所のホームページに、過去の優れた取り組みの蓄積を見ることができる。
・「話すこと・聞くこと」「書くこと」の領域については、国語科の教育の学会では、ごく当たり前に受けいれられている。義務教育段階ではほとんどそのような質問は出ない。目指す資質・能力を考えたときに「話すこと・聞くこと」「書くこと」よりも「読むこと」になるのではないか、と考えている。活動として、「話すこと・聞くこと」「書くこと」が行われることもあるが、最終的なねらいとしては「読むこと」になるということ。これについては、教科教育学の先生方と知見を共有して理解してほしい。
・「見ること」については、中央教育審議会の国語WGでは、高等学校の学習指導要領について検討する中で、はじめに「見ること」という言葉はあがっていた。これについては、「見ること」は最終的になくなってしまった。この経緯を詳しく話すことはできないが、「国語のベースは、言葉の力を育てることだ」ということと「今回、教科の学ぶ意義、教科とはなにかを検討する中で、他教科との関係の中で「見ること」の設置が困難になった」ということである。

(渡部)
・総合国語の両輪をつくるために、「現代の国語」と「言語文化」があるのではないか。この認識は、大滝先生も共有していると思う。現在は2つに分かれているが、その先でやはり統合されるべきであると思う。

(大滝)
・学習指導要領の必履修科目の流れで見ていくと、昭和35年では「現代国語」「古典Ⅰ・Ⅱ」で分かれていた。当時も賛否両論あった。当時は「古典」に対する意識が強かった。現代も続くそういうネーミングは当時からあった。それが昭和53年から「国語Ⅰ」というふうに総合科目になった。「国語表現」「国語総合」の選択必履修になった平成10年版もあるが、今回その「国語総合」を2つにわけた。そういう意味では大きな出来事。今後どうなるかについては、自分の立場では何もいえない。ただ言いたいことは、複数の科目に必履修科目が分かれたときに、それぞれのミッションを背負ってわかれていく。それぞれのミッションを果たすと同時に、2つの関連性は持たれるべき。渡部先生が望むふたたびの総合化に向けた条件としては、今回の2つの科目に課せられたミッションが果たされること、そしてこの2つがまったく無関係にバラバラに行われるという状態を回避していくことが大事なのではないか。

Q(大森)
・現行のカリキュラムでは「主体的・対話的で深い学び」はできないのか?という質問がきているが、現行の区分をかえて、「主体的・対話的で深い学び」をしようとしているのは、文部科学省なので、大滝さんにこれを聞きたい。

A(大滝)
・「主体的・対話的で深い学び」については、現行のカリキュラムでできないから、科目区分を変えたわけではない。実は、高等学校の教員は知っていると思うが、高等学校の移行措置として、すでに主体的・対話的で深い学びをふまえた授業づくりは、実現されてきている。授業改善の視点なので、これはどのような区分であっても実施可能である。

Q(大森)
・「講義調の授業」といったときに、よく大学の授業が引き合いに出されるが、自分の経験を考えても、レクチャーもあったが、ゼミや演習で熱心に議論をした経験の方が強い。なぜ大学の授業=大人数の講義なのか?あまり、講義調の授業を槍玉にあげると、一生懸命やろうとしている先生方に水を差すことにならないか。

A(大滝)
・いろいろな人が授業について語るときに、ネガティブな経験を語ることの方が多い。自分にとって、プロトタイプのイメージを示しすぎてしまったのではないかと思う。
・高校も、大学もすべての授業をひとつひとつ見てきたわけではないので、結論めいたことを言っているわけではない。

Q(大滝)
文学的な文章については、すばらしい授業がある一方で、「小説を読む意義がわからない」「筆者の心情を理解してどうするのか」「なぜ小説をテストに出すのかがわからない」という意見もある。自分としては、文学的文章を使った教室を豊かなものにしていくことが重要だと考えている。文学的な文章を教材とした授業づくりについては、これまでに豊かな蓄積があるが、高校生の中にはそれを学ぶ意義がわからない実態もある。
このような問題について、文学プロパーの先生方はどのようにお考えなのか?

A(安藤)
・重要なのは、「わけのわからなさ」とのつきあい方、自分と異質なものとどう共存していくか、それを身につけていく上で、文学的な文章を読んでいくということ。
一見、実用的なものを読む場合にも、文学的な知性が役立つことも多い。お互い不自由な言葉でコミュニケーションするときに、どこかで小説を読むという行為とどこかでつながってしまう。
・論理と文学をわけることで、通りの良いものだけが優先しようとすることになるのではないか、という懸念がある。
・わかりにくさ、つきあいにくさとつきあうためのトレーニング。これは欠かしてはいけないものである。

(大滝)
・安藤先生の懸念を、高校の先生方が踏まえられるようになることが重要ではないかと考える。
・教材の種類の分類については、すでに示してしまったが、懸念の内容を踏まえた上で、授業づくりの中で、言葉に向き合うことはできるのではないか。

(安藤)
・「分けるだけ分けたから、あとは高校で」というのは無責任ではないか。
・論理的・文学的・実用的な文章という区分けをしたうえで、それに従ってやってください、ということに対して違和感を感じる。

(大滝)
・安藤先生の考えを踏まえて、多面的にとらえるということもできるが、行政的な視点から見ると、「いろいろな見方」ができるようにしてしまったら、教材の種類という考え方そのものが成り立たないのではないか。

(安藤)
・文部科学省の関連者に伝えてほしいのは、ある文章が、文学的であるかないか、文学であるかないか、ということを分けてしまうことによって、文学の定義に行政が関わらざるを得なくなってしまったことの怖さである。
そう決めてしまった以上、教科書検定のときに「文学か否か」を判定せざるを得ないゾーンに踏みいってしまった。これは本当に不可能なことだ。

(山田)
・人をどのように理解するのか。人を理解するときに、胃はどうなのか、頭はどうなのか、足はどうなのかと分けていったときに、人間を理解できるのか?そんな疑問をもった。分化してしまうことでわかりやすくはなるが、それによって見えなくなってしまうものもあるのではないか。それが「国語」、ものを理解するときの役割になるのではないか。
・3日前に送られた本を最後に紹介したい。紅野謙介『これからの国語はどうなるか』。いろいろな識者が新テストや学習指導要領に対して意見を述べており、とても勉強になった。


Ⅴ.フロアとの質疑応答

Q 新しい入学者選抜のありかたについて、みなさんはどのようなイメージを持っているのか?

(安藤)
・新テストは、現在、試行錯誤段階である。はじめのモデル問題がいささか極端なものであった。その後、いくつかの試験問題が出てきたが、まだ固まっていない段階なのだろうと思う。
・ただしはっきりしているのは、情報を重視するあまり、そこに重点が置かれすぎて無理が出てきているのではないかと思う。
・もうひとつは記述に対する考え方。記述を入れれば思考力を養える・評価できるというのは幻想であると思う。書くことは重要であるが、書くこと=本質的な思考力ではない。

(三宅)
・モデルで示されるような新テストは影響が大きい。たとえば、くだらない文法問題についても、現場では、文法問題や文学史の問題を練習として出させている。そういう意味では、新テストは非常に重要。そこまで見極めてしっかり作ってほしい。

(大森)
・試験は、選抜のための試験であり、ある程度、正規分布がきれいに出ないと意味がない。今回、試行テストなどが行われたが、見る限り、一部のできる生徒には良いが、多くのできない生徒にとっては答えられないいびつな曲線ができあがっている。そういう意味では、センター試験のほうが優秀である。
・結局、一部の優秀な生徒たちがさらに有利になるだけである。

(大滝)
・コメントできることも少ない上に、この流れで説明するのも難しいが、試行調査はあくまで試行調査であることを踏まえてほしい。試行としてさまざまなデータを拾いたいと思っている。またメッセージ性もある。現在、意見があったようなことも踏まえながら、受験生のためになることを改善していると推察している。ある意味で、いろいろな意見を言ってもらうことが重要である。

(安藤)
・入学試験は、大学にきてもらう学生を選ぶアドミッションポリシーに従うものである。各大学がどのような学生を必要だと思うのかを、明確にすべきである。

Q(小倉)高校教師からの質問である。今回の学習指導要領では、「話すこと・聞くこと」「書くこと」などの時数がかなり明確に示されている。これを実現しようとすると、少人数授業などいろいろな対応が必要となるのではないか。

(大森)
灘高は、ひとりの教師がすべて教える代わりに、4クラス制がリミットである。高校は55人/クラス。「話すこと・聞くこと」の評定評価をやるとすると非常に大変である。ありうるのは、チームにわけで、10~11チームで議論させて発表をさせるという方法であるが、評定までやろうとすると大変。

(三宅)
小学校・中学校・高校の先生方が、指導要領を反応しうるだけのエネルギーがないのではないか。

(大滝)
半分は、大変重要な問題を指摘されたと思っているが、もう半分は「おや?」と思っている。
学習指導要領ということでいえば、「話すこと・聞くこと」「書くこと」が消えたことはない。現在も、必履修科目のなかにそれがあるというだけで、ゼロからのスタートではない。これまで頑張ってきた先生方の蓄積がもっと表に現れてもいいのではないか。
重要な問題点だと思った点については、「書くこと」が5時間増加したのだが、少人数クラスの実現ができれば良いが現実的には難しい。できることとできないところで、まだまだ課題がある。「働きかた改革」がまとめられたが、個々の先生方にまでその成果が届くまでがなかなか難しい。
・国語の授業にそれがどのようにつなげいくのか、という重い問題がある。たとえば、評価については、「ポイントを定めた評価」ということで検討を進めている。また「話すこと・聞くこと」の授業で、毎回、話すこと・聞くことをする必要はないはずである。そのような工夫をどのようにできるのか。その提案をさまざまな先生方にしていただくことが重要であると重う。

Q(フロア)「論理国語」「文学国語」にわけることについて、同じ教材が、片方では「論理国語」に、片方は「文学国語」に掲載されるということはありえるのか?

A(大滝)科目の目的や内容の取り扱いについて踏まえたうえで、教材が選ばれることが原則になる。

Q(フロア)「文学がなくなる」という点について、「選択」科目について、2×4科目で8単位用意することは難しいので、文学系の科目が学校として開講されないということがありえるのではないか?

A(大滝)選択科目については、「文学国語」は選ばれないのではないかという懸念が出ている。選択科目はあくまで4つ設定したので、どれを選択してもらってもいいということになる。時どき、履修パターンを示してほしいという要望を受けることもあるが、これを示すことはできない。たとえば、ここで自分が「「論理国語」「国語表現」が定番ですよね」というようなことを言ったらこれは大問題になる。
「本当に、「文学国語」が選択されないのか」については、現場の先生方がどのように考えるのかについて情報を的確に収集することが重要ではないか。ある選択パターンがこう選ばれるのではないか、ということを喧伝すればするほど、「そうしない」という選択をする先生も、「それが定番なのか」と思ってその方向に行こうとする先生もいるのではないか。

(安藤)立場上いえないことはわかったが、「論理国語」「文学国語」の両方を選択しづらい設計になっていることについてはどう考えているのか?

(大滝)そのような考え方があることについては、承知している。「論理国語」「文学国語」のどちらかを選ばなければいけないわけではない。各学校に選択は任されており、その事情はさまざまである。先日、ある学校で話をしたところ、4科目用意するという学校もある。一方で、2科目のみに限定して開講するという学校もある。今後、減単も踏まえたうえで、どのように学校が選択するかは、学校に任されている。

Q(フロア:日本大学(河野))今回の改革は三位一体の改革である。大学入学共通テストにする際に、実用的文章が追加された。あれがまったく新しい要素である。それだけ加えただけならば、センター試験のマイナーチェンジでよかったはずである。それもあって、「実用的文章」が今後増えていくのではないかという懸念を巻き起こしている。
大滝さんが立場上いえないことはわかるが、そのように切り分けられていくことで、全体像が見えづらくなってしまっているのではないか。

Q(フロア)学習指導要領の拘束力について。大滝さんは「一定の拘束力」を持ちつつ、「弾力的な運用」をといっている。そうであるとすると、どのように拘束力を考えたらよいのか。

A(大滝)
・新学習指導要領と新テストについて。これまで実施された試行調査は「国語総合」の調査であった。新テストと新指導要領との関係だが、そのあたり、様々な意見が提出されていることは承知している。改革の方向性ということで譲れないところもあるが、有識者の意見を反映して、改善につなげることもなされている。試行調査(プレテスト)は本試とイコールではない。今度は本試ということになる。世間に言われているような問題が起きないような努力を、今後していくということになる。
・選択科目について、資質・能力の視点から科目を創り上げなければならないというミッションがあった。「論理国語」「文学国語」を一緒にしてしまったときに、そのときにどういう資質・能力を育成することになるのか、など様々な点を議論してきた。結果として、選択しづらいという声があることも承知しているが、4単位のものを4つということになった。3つの側面があるが、「論理国語」4単位、「文学国語」3単位としたらどうか?「国語表現」は2単位で良いのではないか?などとしたときにいろいろな意見が想定されるため、すべてを「4単位」でそろえた。これについての是非についてはいろいろな意見があると思われる。それも含めて、さまざまな議論をした結果である。実際、どのような実施になるのかはまだわからないが、指導主事を集めた会合などで情報収集をしている。

(安藤)
法的拘束力については、自分も気にしている。文学か否かを、国が判定してしまうことの怖さについては、すでに述べたとおりである。
正直言って、学習指導要領解説を開いてみたときの印象として、「教育の内容を、ここまで国が細かく決めなければいけないのか」と思った。教育への危機感に対する共通認識から出発した場合に、国が細かく指定し、拘束力を強めなければいけないという発想にたつのか、できるだけ拘束はゆるやかにし現場の活力に任せるという方向性の2つがあると思うが、今回のものについては、明らかに踏み込みすぎである。

(大滝)法的拘束力について。これは自分が言っていることではなく、昭和35年から、学習指導要領には、法的拘束力があるということになっている。また総則編にはそのような記載もある。
ただ、解説そのものに法的拘束力があるわけではない。また弾力的な基準については、全国一律の基準ということになっているが、基準といっても、教材や授業方法を詳細に規定しているわけではない。そういう意味において、学校の先生方の創意工夫を十分に踏まえた基準という意味で「弾力」といっている。
今回の授業時数のように数値でかかれているところについては、留意する必要がある。習得に必要な単位数と同様、指導要領に記載されている事項であり遵守しなければならない。

(フロア)学習指導要領について、大滝先生は、学習指導要領を読んでない教師について、かなり辛辣な書き方がなされている。
昭和22年に学習指導要領ができた当時には、画一的な教育への批判があった。ボトムアップで、教師たちの指導をつくりあげていくことが謳われていた。これが昭和35年から変化してきたのは事実である。
ただ、これまでには、ダブルスタンダードがあった。実際、現行の「国語総合」の学習内容の範囲で、センター試験の問題がとけるか、といえば誰も解けるとは思っていない。今回、強いコンプライアンス主義で「学習指導要領を徹底する」というかたちで指導要領が出されているので、我々としては不安を感じている。

(大滝)今回、「話すこと・聞くこと」については、中央教育審議会で、「本当に、国語科できちんとやっているのか?」と問いつめられる場面があった。
学習指導要領が教師の授業をことさら縛るものとするのではなく、新しい学習指導要領の理念を踏まえていきながら、それを乗り越えていく、豊かなものに発展させていただくことを期待している。学習指導要領の理念自体もそれを生みだしうるものであると考えている。

(フロア)「古典探求」の中に、「古典を学ぶ意義を生徒に考えさせる」という文言が入っているが、それほど古典を学ぶ意義は自明ではない。自分はそれがわからないまま研究を続けてきたが、古典を学ぶ意義はどのように記載されていくのか、また古典を学ぶ意義をとらえていくための単元構想・教材研究の方法をどのように提示するのか?

(三宅)
「古文は、時の方言」と最後に書いたが、それでほとんど言い尽くせている。ものを考えるときに、広い世界で考えられる。自分自身の世界をどこに持つか、というときに、古典というのは時の流れでの広がりを持たせてくれる。それは言葉だけではなく、人間性や社会性など、様々なものが含まれる。世界を広げるということである。
現在、品詞分解と文学史暗記であれば、自分と古典の世界との関係を考えないままに、平行線をたどってしまう。自分と古典との関係性を知ると、間性が広がる。世界を広げるために古典が必要である。

(渡部)
大事な問題である。1月に「古典は本当に必要なのか」という問いかけがなされた。異文化でありながら、自分たちと地続きでつながりあっている。そういうものはなかなかない。自分たちができることは、1回1回、ひとつひとつ「発見があるでしょ」と共有していくことなのではないか。そういうことをつなげていくことしかできない。「意義を考えさせる」というのも、そういうことに生徒を向かわせるきっかけとして捉えるのが良いのではないか。

(フロア)
自分とつながっているが、異文化であるものが大事。古典は「縦」の世界観で、見えないけれども、いなくなってしまったけれどもそういう人たちとコミュニケーションをとるということ。そういうことが学べることが古典の価値であると思う。

(渡部)
自分のキーワードは「受け渡す」である。これについては無前提に価値があると思っている。それが一番できるのは古典ではないか。

(フロア)
今回は、細分化が問題にされていた。科目やジャンルの細分化が問われている。それが終着点になっているのではないか。結論としては、「総合国語」という方向で統合していくのではないか、というのが自分の見立てとしてもあった。
しかし、これから学習指導要領は変わってしまう。しかし高校現場がもっとも気にしているのが「センター試験が変わってしまう」といことである。
今回、現場が問題にしているのが、センター試験がまず変わってしまったことが問題である。
三宅先生が品詞分解や文学史を批判していたが、大学が入学試験として出すから、現場で教えざるを得ない。

A 横浜国立大学では「総合問題」と面接だけで、まったく、文法問題や現代語訳などは出していない。そういう大学は増えてきている。いろいろな大学があるので、苦し紛れに文法問題や文学史を出しているところはある。しかしそれは苦し紛れである。苦し紛れは止めてほしい。

Q(フロア)資質・能力を育成するためには、分解しないほうが良いのではないか。カリキュラム・マネジメントをより柔軟にできるようにしてほしい。これについては次回、本当に考えてほしい。

A(大滝)共通化に向かうには、また乗り越えなければいけないハードルがある。保健体育にできるのだから、国語にもできるはずだという考え方もあるが、国語には国語の状況がある。身近な科目であるだけ、いろいろな人から意見が出やすいという事情もある。総合化のためには、そのような共通理解をはかっていく必要があるのではないか。総合化が実現していくためには、国語に携わる様々な人たちが交流をして、少しでも共通理解を構築していくこと、それが高校生に伝わっていくことなのではないか。

Q(フロア)大滝先生と文部科学省に対して意見を言いたい。言葉に対する認識が甘いのではないか。たとえば、いただいた資料の中に「象徴にすぎない」「重点」というような表現がある。また今日の受け答えの中に「ネーミングのミスであった」というような発言もあった。
文部科学省の立場上、ある意味をひとつの言葉に集約せざるを得ないということはある。しかし、言葉は世界の認識をつくっていくという側面もある。「論理」「文学」というかたちで世界を切り分けてしまうという側面がある。それは切り分けてしまうという危険性がある。そのため、自分は「文学」「論理」に分けられないけど、そのように「象徴」として言っているというのではなく、今後の世界の認識を創っていくものという認識を持つべきである。

(フロア)
文法や文学史の丸暗記に注力している現場の問題、それを助長している入学試験に対する問題が指摘された。そうであるとしたら、どのような入試であれば、充実した古典教育が実現しうるのではないか。やはり一定の文法力が必要となるのではないか。アクティブラーニングをすればするほど、伝える量は経るのではないか。現在よりも数十倍もの古典を触れさせれば良いのではないか。このままだと古典教育を縮小させていくのではないか。

(三宅)
本日の配布資料の「古典探求」②のところで、アイデア(「習うより慣れよ。質より量。)を示した。このあたりが、今の質問とかかわるのではないかと思う。
入学試験については、文法問題が出ているのは非常にわずかなので、無視できるのではないかと高校教員には提案している。
ポイントをつかむためには文法知識が必要であるが、しかし文法知識を必要としなくてもポイントをつかんでいくための古典知識があると自分では考えている。

(渡部)
個人的なことを言うと「古典は、量を読めばいいんだ」と言いたくなるが、やはりうまくいかない。文法を学んでみると、「ああ、こうなっているのか」と目から鱗が落ちることもあった。そのため、自分は文法教育は否定していない。トレーニングそのものも、毎回やってみたほうが良いのではないかと思う。そういうふうにして、「ああ、おもしろいな」と気づいていく、そういうものを試すような入試問題が作れるといいな、と思う。

(フロア:高校生)
教員の労働問題がある中で、このような膨大な資料を教員に与えても、現場は疲弊するだけである。
自分は高校生であるが、高校生の生の声として、現在進んでいる改革を即刻止めてもらいたい。現在の混乱が生じている原因は、文部科学省があらゆる問題への対策を一度に進めようとしているところにあるのではないか。このようなことで、高校生としては入試改革に不安を覚え、これからどのようになるのか混乱しているような状況である。これを今、意見として受け止めるというだけではなく、このような高校生がいるという意見をきちんと文部科学省のしかるべき担当者に伝えてほしい。





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